名著を読むということ


日本で学生をしていたら、この疑問から逃れることはできない。

「勉強なんて一体なんの役に立つの?」

答え方は様々だ。僕自身、「なるほど」と頷かされる答えをいくつも見てきた。
曰く「系統的なものの考え方を学ぶ練習」だとか、曰く「意味なんて無い、砂場の城づくりみたいなもんだ」だとか。どちらも小説の登場人物から得た答えだが、やはりよく交わされる議論なのだろう。
どちらも内容はうろ覚えだがこんな感じの内容だった。

前者は村上春樹ノルウェイの森で目にした話だ。
「英語の文法、過去完了形とか不定詞とか一体なんの役に立つっていうの」といった疑問をぶつけられた主人公が「そうやって物事をよく整理して、きちんと順序だてて、系統的に学ぶことができるようになるための訓練なんじゃないかな」と答える。物語の舞台はちょうど学生運動が盛んな時代だったため、「そうやって学んだ人間なら、資本論の内容がわかるんだと思う」と続けていた。
要するに「訓練だ」という。

後者は森博嗣冷たい密室と博士たちで目にした話。(ここに書くまではすべてがFになるだと思ってた。それくらいに記憶が曖昧)
教え子の夫と会う機会があって、そこで数学教師の彼が主人公に上の質問をよく生徒から受けて困るという話。主人公は「意味なんかありませんよ、砂場の城づくりみたいなものです。意味がなければないほどいい」といったような事を話す。そして「大体僕らを見てください、一体どこが役に立っているっていうんです?」とすら言う。主人公は大学の助教授という立場だ。(今では准教授……だよな? 今の助教はかなり立場が低いはず)
おそらく「単なる娯楽だ」ということだろう。

さて、これらと同様にしてもうひとつ、「勉強がなんの役に立つのか?」という質問に答えた文章を読んだことがある。それはネット上のブログでのことだったのだが……残念ながらどこの誰が書いたブログだったか覚えていない。きっとググれば見つかるかもしれないが、本当にそのサイトで合ってるのか自信がないので内容を記すに留めておく。

「勉強がなんの役に立つのか?」 という質問に対して「そんなこともわからないのか」という輩がいるがそれは全くなんの解決にもなっていない。私が考えるに勉強というのは「他人の考え方」を真似る方法ではないか。過去、偉大な先人たちが築きあげてきた知識群を踏襲することで、私達は他人が考えたことでも自分の考えのように使いこなすことができるようになる。リソースは限られているのだから、この「他人の知識」を上手く扱うことこそが社会で活躍する手段だ。

確かこんな感じのことが書かれていたと思う。 
自分の頭で考えるというのは重要なことだが、時間を節約するというのもまた重要なことだ。それに他人の考えに触れることで自分一人では思っても見なかった考え方に出会うこともあるだろう。そして何よりも重要なのが、「他人のアイデアを自分のアイデアのように使いこなすこと」だ。
自分のアイデアを使いこなすのは簡単だ。自分で思いついたのだから。もし時間が経ってちょっと忘れそうになっても、思いついたアイデアをメモした何かや思いつくに至った経緯など、その知識に至るいくつかの手段が確保されている。自分の内側から生産されたものならば再生産だって可能だ。だが外側から輸入してきたものについてはそうもいかない。なにせ自分の中で作れない(だからこそ輸入するのだが)アイデアだ。放っておけば幾度となく忘却することだろう。記憶に留める確実な方法は、「己のものにする 」ことではないだろうか。
そして輸入品にもかかわらず、骨身に染みるほど使い込まれたアイデアならば、忘れることもなく、また自分の手足のように自由に扱えるだろう。


といったことから僕は名著を読むことを強く意識しているのだけれど、最近はちょっと「これじゃ頭でっかちが過ぎやしないか?」と不安に思うこともある。本を読むばっかりでコーディングをしていない。あまり良くない兆候だ。読書とコーディングはバランスが取れるよう、ともに継続して行われるのが望ましい。
夏休みの間はできるだけ暇をオンラインジャッジに費やしたいと思う。
有限不実行にならなければよいと、付け加えて思う。